父の四十九日で帰郷した際、ちょうど母の通う紅花学級の花摘みがあるというので、ついて行きました。
マルニの実家、山形県河北町は、江戸時代には全国随一の紅花の産地だったのです。
すぐ近くに、紅花資料館もありますよ♪ →★
紅花染の体験などもできます。
幕末に養蚕や茶の栽培が普及し、明治にヨーロッパから化学染料が輸入されて、一気に衰退したそうです。
が、なんとか細々と命脈を保ち、宮中や皇太神宮の式典で用いられる服装には、必ず最上紅が用いられたとのこと。
それが今また、町の花として指定され、なんとか絶やさぬようにとイベントなども行われているようです。
紅花摘みは夜明け前に始まります。
朝靄で、少しでも棘が柔らかいうちに。
とは言っても痛いこと痛いこと!
上下合羽で、軍手にゴム手袋しててもですよ!
ゴム素材なんて無い頃は、娘達が血だらけで摘んだのだそうです(> <)。
紅花摘み唄を歌いながら・・・。
でも、その景色は絵のように美しい。
手元の上記紅花資料館の冊子によりますと、
1788年 幕府の巡見使に随行した地理学者古川古松軒は、村山盆地を見下ろした印象を次のように書いている。
この頂より山形の郷中眼下に見ゆ。
原野大いに開けおよそ十万石もあらんと覚しき所、畳を敷きたる如き田所なり。
この節紅花盛りにて、満地朱をそそぎたる如く、うつくしきこと何にたとえん方なし。
かようの土地は上方・中国・西国にいまだ見当たらず。









落ち穂ひろいみたいですね。
だんだんと夜が明けてゆき、遠くの山並みが浮かび上がってくる。
それはそれは美しい時の流れでした。
(娘達ではありませんでしたが。)
摘んだ花は揉んで腐らせて、お煎餅みたいな紅餅にして乾かして、それを京に運んでいたわけです。
最上川を下って、酒田から船で日本海を下って・・・。
米などは、そのまま南下して下関から瀬戸内海にはいり、太平洋に出ていたのですね。
海上の方が効率的だから。
でも紅は、高価で採算が取れるから、日本海から敦賀に陸揚げし、敦賀からは駄送、また船に積んで琵琶湖を渡して大津に運び、淀川を下して京に送ったのだそうです。
京からの帰り荷として、美しい着物に生まれ変わった紅花染や、それらを纏ったお雛様、さらには方言や料理法などもたくさんやってきたようです。
御所文化が雪国で混沌と煮詰められたような感覚が、幼い記憶の隅にこびりついてるような。。。
実家のお向かいには、お蔵が4つあるお屋敷の黒塀がずら~っと並んでおり(座敷牢もあるらしい・・・)、4月の雛祭りには、赤ん坊ほどもある、古いお雛様が飾られたのです。
で、子供達は、
「おひなさまみせてけらっしゃ~い」
と、お菓子をもらいに行くのです。
お屋敷の奥の奥、暗~いお座敷にぼーっと浮かぶお雛様。。。
怖かったなあ。。。
お菓子をもらってるこけしみたいな幼いマルニの写真が、なぜか今も資料として紅花資料館に飾られています(笑)。
今は雛の公開が観光化され、すっかり明るくなってますけどね。
さて現代の河北町紅花学級の皆様は、もちろん紅餅で終了ではなく、染めを楽しまれています♪
数年前、愛しの姪にマルニが被布を染めた時、中に着たのは母が染めた紅花染の着物でした。

紅花染、マルニもやりたいのですけどねえ。
紅は皮膚疾患や婦人病にとても良いのです。
紅の長襦袢なんて、色っぽいだけじゃなくて、とっても実用的なのでしょう。
でも地元といえ紅餅がとにかく高価だし、なのにものすごく退色しやすい。
なので今のところ、母作の帯揚げやスカーフで楽しむ一方です。
そういえば!
紅花と言えば山形とばかり思っていましたが、それ以前、平安時代は、千葉県長南町で栽培されていたんですってね。
お近くではないですか♪
お寺で紅花祭りも開催されるとのこと。
来年は母を連れて参りましょう。
エジプト生まれの紅花が、シルクロードを通って日本まで辿り着き、房総でちょっと根を下ろし、また少し進んで出羽の国にしっかりと根を下ろした。。。
不思議だなあ。
文化とか、宗教とか、民族も・・・、あちこち通り過ぎてって、「ここだ♪」ってところにちゃんと根を下ろすんですね。
体に進入してあちこち行って、なぜか耳下のリンパにだけ腰を下ろす、おたふくウイルスにも似ている。。。
~染帯*名古屋帯~マルニ友禅工房


